mix or join(集団に溶けこめない人たち)

 以前に森博嗣の小説で見かけたこと。
 欧米の集団の繋がりはjoinだが、日本の集団は「俺も混ぜてくれ」という言葉通り、mixなのだと言うこと。
 これはとても印象に残っている。(出典となる小説は失念)
 
 確かに欧米はjoinによって繋がっていくリンクリストみたいな感じがして、そのjoinの連鎖が数多く発生していて、最終的には複雑に絡み合ったチェーンみたいな気がしている。
 これは、直接その集団に触れた訳ではないので思いこみも入っているだろうけれど、Webサイトにおける繋がりも欧米のコミュニティも、それらの人々が書く書籍にもそうした色が濃く現れているように感じる。チェーンの中をけたたましくエネルギが行き交う感じがして仕方がない。

 そして、やっぱり日本はmixであって集団に溶けこむ事で個を失っていくというか、mixiのように繋がっていても集団の中で個は打ち消されていくような感じをうける。
 自分が自分であることは許されないというか、人格も性癖も特徴も個性も抑圧されて、ただひたすらに集団の構成要素であることを求められているような気がする。(例えばmixiにおける暗黙的な儀礼などがそれ)

 要するに日本において集団に溶けこめない人たちというのは、このmixにおける打ち消しに常に反発を覚えるのではないのかなぁ、と感じたということ。
 組織なんてものはその最たるもので、出来るだけ個を特出させないような仕組みなってしまっている。卓越した技能があっても、組織に適さないということで放逐される人もいるし、放逐されないまでも槍玉に挙げられるのがしばしばだ。
 
 なので、集団にうまくとけこめない人たちは、いつも苦痛を感じ、危惧を覚え、騙し騙し生きていくしかない。
 自分も前職では技能の欠片もない上司だとかに話をあわせて酒の席を囲むのは酷く苦痛で、中身のない会議などでもいかに神妙な顔をしてやり過ごすかで精一杯だった。とてもではないが、使えない言語に対しおべっかを使って、自分の技術をすり減らす気にもならない。下から誰も追いかけてこないから、自分はやる気がでないという人間に師事する気もない。
 なので、溶け込める環境を求めてベンチャーを探したし、駄目なら駄目でまた流離う事もあるだろうと思う。

 そうした中で、溶け込めない人たちが何らかの事件を起こしてしまうのもまた必然のような気がした。あたかも溶け込んでいるような気持ちでいる人も、心のどこかでそこからの解放を求めている。非日常に潜むリスクは現実から自分を遠ざけてくれるだろうし、そのリスクによって日常を解き放つことさえあり得るかもしれない。騙し騙し日常を続けている人にとって、リスクや未知のものは確かに救済でありえるのだ。

 これは良い意味でも悪い意味でも、集団に溶け込めない人たちが特質であるが故に有無を言わせずmixされてしまうことに対する反抗心の現れなのだろうとも思う。
 その尖った感情は常に抑圧されていて、反発しようとして何かを起こす。これは偉業だったり、犯罪だったり、卓越した技能であったり、様々な形で現れてくるのではないかな、と考えるようになった。
 であるから、突飛な創造、芸術、犯罪(に至る過程)は密接に関係している気さえする。

 逆に言えば、一度も溶け込もうとせずに溶け込めないと思っている人が単に食わず嫌いである可能性もあるわけですし、犯罪が正しい訳でもないので、こんな事をグダグダと述べても何の解決にも発展にもならないことはわかっているのですけれども。