人が努力できるかどうかは30までに決まる
という事を考えるようになった。
息をするように努力をしている人と無能でどうしようもない人の差違は、
そこまでの習慣に努力がすり込まれていたかどうか、じゃないのかなと。
プログラムもそうで、
30までに変なコードや変なやり方に疑問を抱かなかった人間はもう疑問を抱く事はないし、
良いコードを書こうと思わなかった人間はもう良いコードを書こうとはしない。
例えば、30になってからプログラムを憶えた人でも、
不断の努力が身についていれば
努力しないで20からプログラムをしている人間をあっと言う間に追い越してしまうだろう。
不断から良い物を創ろうとしていたら、良い物をつくってしまえるんじゃないかな。
また、努力しない人たちは口を揃えて言う言葉がある。
「努力しています、精一杯やっています」
「これだけの時間やりました」
例えば、月400時間も作業をしたことが「あったこと」をまるで「俺はこんなにもやりましたよ」的なニュアンスで自慢話として話す。
いつもこれはおかしいな、と思う。
努力したことを認めるのは自分ではないし、努力したことや時間ではなく成果物にこそ意味があるのではないか?
「子供の頃からマイコンを触っていた」
なんてことも言うけど、触っていた事が凄いんじゃないんだよ。
自分はだいたい今の月あたりの実働時間が記帳時間で260程度で、
土日をあわせたら300程度だろうから、
単純時間で比較すれば400はある程度多いとは思うが、
400時間かけたことよりも400時間で成し遂げた事の方が重要、
ということに気付いていないのが痛い。
例えばどうしようもないプログラムを400時間で作り上げたらそれは時間の無駄だし、
他の人間の時間まで奪っていることになる。
それは努力ではない。
その400時間をどうやって短縮するか、ないしはなくすか、
どうやっても短くならないなら、どう使うのか、
それを考えるべきじゃないか?
でも、そういうことを30までに考えなかった人は死ぬまでそのことを考えることはないだろう。