MMOは演奏会に似ている?

 少し前に「MMOの楽しさは演奏会の楽しさと同じ」というようなエントリを読んだ。
 要約すればMMOにおける他人は邪魔な存在ではなく「独りでは出来ないことを複数人で力を合わせてやり遂げるための存在。そうする事が楽しい」ということだった。
 この内容に大きく違和感を感じていたのだけれど、改めてその理由を考えてみたところ、恐らくこういう事なんだろうなと思った。


 その記事の主張では「合奏の楽しさはその姿をステージ(人前)で顕示することで自己顕示欲が満たされるからだけではなくて、他人とハーモニーを奏でる事自体が楽しい。こちらが本質で、自分ではない存在と歩調を合わせる(ハモる)事が快感に通じる」ということだったのだけれど、これは「確かに」と思える反面、MMOというのは「好きなときに好きなことだけをすることができる」訳だから、別に歩調を合わせている訳ではないんだよなとも感じられた。


 所謂演奏会というものは例え非営利だとしても大勢の時間を調整して、そしてお互いの力をどうにか調整しながら一つの事を成し遂げていく。この中に、馴れ合いもあるだろうけれど、所々で主張の相違が見られたり、力量の差があったり、有り体に言えばそこには「数々の問題」が存在している。これは実生活に根ざしている事もあるだろうし、その集団の中でだけ発現する要素だったりもするだろう。所謂「ハーモニー」というものは「即興の一時間とか二時間とか、そういうレベルで行われるものではなく」て、連続する日々の中で決められた時間をともにし、そうして行われた「長時間の摺り合わせの結果訪れるもの」なんだろうなということを感じたからだ。
 希には絶妙な即興の合わせ技なんてこともありえるだろうけれど、多くの「演奏」はそういう事ではなくて実際には地道な鍛錬の末に「それ」が待っている。楽器が下手な人は「教えてもらう」ということはできても、独力でなければ演奏力をあげていく事はできない。だから、みんな一緒に並んで歩いていくしかない。その道を降りていく人もいるだろうし、上ってくる人もいる。そういうものでなくてはならない。

 反面、MMOは他人に強くしてもらうことができるし、お金でもそれができる。純然たる努力ではなくてただ長い時間をかけることでもそれができる。
 ましてや、足手まといでもそばにいることが許される。
 「必死で指先に血豆を作ってまで弦楽器の練習に励み演奏力をのばした人」と「人からお金や装備をもらって強くなった人」「(リアルな)お金で装備やアイテムをそろえて強くなった人」「ただただ長い単純作業を繰り返して強くなった人」「強くなろうとも思わずにそばにいるだけの人」というのは決してイコールではない。
 前者は身についたもので、決して無くなることはない。例え練習すること忘れ錆び付いたとしても消えて無くなることはない。指を失って弦に触れることができなくなっても、そのときに身についた音に関する力は失われないだろう。(また、努力を重ねてもそうした技術が身につかなければその人はその道を降りるだろう)
 反面、後者はいかに強くなってもサーバが消し飛んだら終わりだ。アカウントがなくなったら終わりだ。何も身についてはいない。
 何か間違っているとは思わないだろうか。


 自分がこんなにもMMOに否定的なのは私的な事もあり公正な意見ではないのでMMOが最高だと思う人は聞き流していただければ幸いなのだけれど、MMOで築かれた能力というのは所謂現実では殆ど役に立たないものであるので、現実世界の出来事に即して利点を述べるのはやめた方が良いと感じてしまった、ということだ。
 言うなればMMOが演奏会と同じだというのなら「演奏会」に参加すれば良いということになってしまう。それが出来ないから代替としてMMOを選択しているのであって、似通っているかもしれないが、これらは本質的に同等ではありえない。
 と、違和感を言葉にすると長くなってしまったけれど、もっとシンプルな意見にならないかと思案中。