いじめを認めないと始まらない

 いじめは無くならない。いじめをなくそうという幻想を抱くのは勝手だけれど、犯罪が無くならないのと同じでいじめだってなくならない。
 だから、学校なんかはいじめをあるものとしてとらえておくべきなんだと思う。程度や頻度の差はあるし、立場の逆転も頻繁に起こるけれど、それを常にあると考えて何か対応をしていくべきなのじゃないかな。

 教育委員会やら教師やら、どうして自分も子供だった頃があるのにわからないのか?
 まぁ、見て見ぬふりをしたいのだろうけれども。
 あれだけいじめが明らかになっても否定する方が寧ろ世間の目を厳しくするとしても、いじめを徹底的に認めないというところに駄目さがにじみ出てますよね。
 臭い物に蓋をす理論。

 軽度のいじめは別に悪いことではなくてある種当たり前のことだと言える。
 言われあって排斥されることも言われなく排斥されることもあるだろうけれども、そうした中でどうやって立ち振る舞いをしていくかを学ぶ場所が学校(集団生活場)でもある。
 人間形成の一環なのだから、集団が存在すれば孤立したり排斥と向かい合わなければならなかったりするのは至極当然で、そうしたシーンは成長に繋がるわけだから存在すべきなのだ。
 そうでなければ、あまりに仲良しこよしグループばかりの環境で育った場合に社会にでて初めて屈服する可能性があるしね。

 問題なのは人間は慣れる生き物なので排斥意識や行為がエスカレートすることがあるということ。エスカレートするとまさに相手を自分と同等とは思わなくなるのでいじめが劣悪化する。これを止めるためにも学校側は「虐めは必ずある」として「エスカレートしない」方法を考えていくしかない訳だ。

 いじめられる方にも原因がある、ということも言われるけれど、原因なんてどこにだって転がっている訳で、そんな当たり前の事は言わなくても良い。普通に生きていたってどうでも良い理由で人を好きになったり嫌いになったりするじゃないか。

 大人はそこでその人と積極的に関与したり関与しなかったりすることを選択できる。
 ただ、子供は毎日顔をつきあわせて生活しなければならない集団であるがためにこれらを選択できず、簡単にエスカレートする。
 大人にだって排斥意識(誰を良く思い誰を良く思わないか)はあるんだから、そこで何が起こっているかを認めるべきだと思うんだけどね。