差別はなくならないよ

 ちょととはてブでみた記事で思ったこと。
 前提、これは議論ではありません。主張でもありません。ただただ感じたことに過ぎません。

 結論、差別はなくならないよ。
 これは当たり前のことで、差別はなくさないといけない、なんて本気で言っているとしたら現実を認識していないとしか言いようがないと僕は思う。
 
 なぜって現実問題として奇異の目を無くしたり、理解できないことを無くしたりすることは不可能だから。

 例えば汚い話で申し訳ないが、世の中には汚物を喜んで食べられる人がいるだろうけど、あなたがそうでないとき、それを理解できる?
 もし、つきあっている人が「実は汚物を食べるのが好きなんだ」と言い出してきたとき、それを何の躊躇もなく理解して受け入れることができる?

 極論を言うとそういうことで、これが微細な問題にも作用する、お手洗いの時、便器の蓋を上げるとか、下げるとか、そうこうことでさえね。
 ……ということで「差別をなくそう」なんて世迷い言で絶対に不可能なんだということ。
 理解ができないことは絶対に誰にでも存在するから。

 だから、どうすべきなのか、といえば逃げ場所のない子供ならともかく、自由がある大人なら自分で居場所を選べば良いということ。

 そんなに自由になれないんだよ、っていう人も多いだろうし、だから、自身の持つ特殊をひた隠しにしなければならないとか、隠さないといけないなんておかしいから戦わなければならないとか、いう人は多いんだろうけれど、
 そうした自分に対して差別的な目がある環境に固執してしまう自身こそが病理なのではない?

 変な話かもしれないけれども、人間は人間であって、何かを好きになったりすることは自由だし、生まれは選べないのだから、性別や立場、出身などに違いがある。
 だから、差別というか、個々の人間に差異があるのは当たり前。そこに違いを感じるのは当たり前。
 性癖だって色々、嗜好だって色々、選んでそうなった訳じゃないんだし、実際に違いがあるのだから、差別を持つのは避けられない。
 その根源が偏見にあるのだとしても、その人にとっては偏見は偏見であると認識できないのだから、矯正することすら難しい。

 それと同じように、例えばオタクを気持ち悪いと思うことも自由。選んで気持ち悪いと感じている訳ではなくて、その個人として形成されてきた結果、そうとしか考えられないのだから仕方がない。
 だから、もしオタクの人は誰かにそう思われたとしたらそれはそういう人なのだ、ということを受け入れなければならない。その差別的な考え方もまた人として感じる感情なのであるから、当然であると言える。

 じゃ、差別される人は迫害されなければならないの? って思うかもしれないけれど、そういう訳じゃなくて、迫害されない場所を見つけるしかない、ってことなんだと思う。
 何かの(一般的に言う)障害を持つとしても、それを障害だとは思わない人もいるはずだから、それを見つけるしかない。

 人によっては大変かもしれないけれど、人は持って生まれたものが必ずあるから、誰もがそれを元にして居場所を見つけようとしていることには変わりがない。

 それが不都合なら、捨てることもできるんだし。

 うんと、僕が言いたいことは、
 「あなたが持つ嗜好を捨てること」と「相手が持つ差別を捨てること」は同じくらい難しいということ。
 嗜好でなくて障害でもそう。
 障害は捨てられない、意識は変えられる、って思うかもしれないけれど、意識だって持って生まれて育まれたものなんだから、変えるのは困難なことだよ。

 そうだなぁ、貴方が偏見を持っていないとしよう。今日から突然「偏見を持ってください」と言われたら? これこれこういう理由で差別しなければならないんだから、偏見を持つことをお願いします。と言われたら?
 人の意識が簡単に変えられる、としたらそれもできなければならないよね。

 結局、人ができることは自分で自分の居場所を決めること。人との関わり方を選べること。それが自由だから、人はまだ救われている。

 それができるかできないか、で人は幸せに生きられるかどうかが変わってくると思う。幸せかどうか感じるのは人それぞれだから。

 それができる国にいるってこと自体がすでに幸せかもしれないし。