蛇遣いとの遭遇

 帰るときの電車は相変わらず混んでいるような空いているような微妙な案配の車両が混在している。電車の中では人の機微が満ちあふれているが、あからさまなアピールとして大声で何かを話したり、一つ一つのことに舌打ちをする男たちもいるので、それとの隔絶を選んで、ただ文字を目で追う事に徹することにした。
 重たくて仕方がないのだが持ち歩いている「初めてのPython」を開こうかどうか迷う。ただ、少し喉の奥がいがらっぽく、気持ち悪い気がしている。読み始めても集中できないような気がして、読みやすい「暗号技術入門」にしようか、と考えていた。しかしながら、こんな重いものを持ち歩くからいつも鞄がでかいとか重いと言われてしまうのだろうな、と当たり前の事を考える。
 そういえば技術書の類を電車の中で読んでいる人には今まで一度しかお目見えしたことがない。唯一のそれはO'REILLYの「sendmail」で、しかも小柄な女性が読んでいたので、興味をそそられたのを強く憶えている。別に女性がそれらの本を読まないわけではないというのは知っている。書店にいき「熊とワルツを」や「UMLモデリングのエッセンス」を抱えた女性を見かけたことがあるからだ。
 しかし、流石に技術書を電車内で読んでいる女性にはなかなかお目見えできない。見かけるそれとして最もメジャな文庫の、カバーのその奥が技術書ということもありはしまいだろうし。

 仕方が無くその内容の重さで選別した「暗号技術入門」を読んでいるときに頭の上を人影が横切った。たまたまその車両の中で空いていた席は右隣だけだった。
 気を惹かれて視線を少しあげる。
 その主は紺の制服を着ていた。高校生だろうか。くすんだ藍色の鞄は所々解れて、特に角の解れはその年期を伺わせた。妙に中身が詰め込んであるようなパンパンの鞄だ。あれでは、型くずれを起こすのも早いだろうな、などと考えているうちに、その子はするすると隣の席の前に位置取り、器用そうに身をすくませ席に滑り込む。膝の上に鞄をのせ、一息ついた。

 座って時間を気にしているような仕草をみせ、やがて鞄から大きくて分厚く似つかわしくない本を取り出す。おや、その見慣れた表紙、独特の色、なんだ「初めてのPython」じゃないか、と自身の鞄に収まっているそれとの共通項を見つけ、酷く驚きを受ける。おいおい、君は何者だ。

 その子は、その分厚いそれを膝に置くと栞を器用に取り出し熱心に読み始めた。Pythonとその子が何の繋がりがあるのか、と考えて答えがでないことに気づいてやめる。世の中には不可思議な事が起こるものだなと思い知らされる。
 改めて人物に興味を向けた。その黒い髪は長いのだろうが頭の上で器用に束ねている。縁なしの眼鏡、「真面目そう」と形容するのが似つかわしい風貌だ。あまり見ていると不審だなと思って首を捻るのをやめる。

 ただ、僕はそれでも興味を打ち消せずに視線を本に向ける事をやめられない。どこを読んでいるんだろう。真ん中のように見えるから、classステートメントのあたりだろうか。
 それがわかったとしてもせんのないことだと気づき、こちらはこちらの活字を追うことにする。

 やがて、電車は最寄りの駅に着き、僕は席を後にする。その子は座ったまま、まだ熱心に本に目を通している。乗り過ごしてしまいはしないか、と無駄な心配をしている自分に苦笑する。

 高校生だとしても、どこでPythonを使うのだろうか*1、と考えながら岐路についた。まるで幻想に出会ったような気がしていた。

*1:欧米では教育用に使われるので教育用かもしれない