邪推は所詮推測の一部分でしかないので「ありもしない悪意を読み取る」のと同じように人はありもしない意図や意味、そうしたものを読み取っている。
これは至極当たり前で、同じ言葉であっても誰が言ったのか、いつ言ったのか、誰に言ったのか、どういう態度で言ったのか、そうしたものが必ず「意味を汲み取る側」に影響を与える。(与えないことはできない)
「それ」自体は病気でも何でもなくて、これができなければ例えば「小説を読むこと」を楽しむことはできない。
小説を読むと言うことは文章から意味を汲み取るということである。
例えばまともな小説では「彼は怒っている」とは書き表さない。「彼女は彼の態度に悲しんでいる」とも書き表さない。
文章の間と間に何かが書かれていなくても、そこにただ単に仕草だけが書かれていようと、他愛のない台詞だろうと、「誰々は誰々に悪意を持っているのだ」「誰々は誰々に好意を持っているのだ」「彼は恥ずかしがっているのだ」「彼女は怒っているのだ」というような様々な事を汲み取る。
概してこれらが正しいかどうかを確かめるすべはない。
現実世界、およびWebの文字の世界ではこれと同じことを延々と繰り返しているわけで、人が自分の都合の良いように意味を汲み取ることや、自身が込めてもいない意味を汲み取ることを避けることはできない。
これは読み手すべてが全く同じような受け取り方をする小説を書くことができないのと同義である。単純に「面白がらせる」ということにおいても、一意かどうかは疑わしくある。
文章に限らず映画でも何でも寸分違わぬ感想を抱くことはできない。「面白い」「つまらない」といったような端的な感想においても必ず「どこが」「なにが」ということが存在する。これを表現できるかどうかは別として。「演技が上手い」「料理が美味い」「脚本が巧い」といったような端的な言葉にさえ、含みがあり、人は自分の経験を重ねてそれを想像するだろう。
個人の汲み取りや表現力如何はさておき、単に揶揄であるか、はたまた明白であるか、意に限って言うならばその「文字列」が悪意であるか、善意であるか、失意であるか、合意であるか、好意であるか、犯意であるか、それは汲み取り側に常に委ねられている。
様々な「意」は推測で成り立っていることを忘れてはならないと思う。
しかし、PHPは言語として(ry
例えば僕がHoge言語の開発者が上記のような言葉を書いたとしたら、そこに無いはずの悪意を感じてしまうだろう。
そこに書き表されるべき内容が書かれていない限り、そこにある文言と持ちうる情報とを関連づけてのみ「意」を汲み取らざるを得ないのだから。